|このドラマを「しんどい」と感じたなら、それは正常です
このドラマを見終わったあと、私はしばらくリモコンを置けなかった。
「面白かった」と言うには胸の奥がざらついていて、
「つまらなかった」と切り捨てるには、妙に忘れられない。
たぶん多くの人が、似た場所に立たされる。
事件は“解決”する。判決は出る。物語としては着地する。
なのに、気持ちが置いていかれる。
それが『テミスの不確かな法廷』の「優しくなさ」だと思う。
でもね。ここが大事なんだけど、
この“優しくなさ”は、意地悪じゃない。
この作品は、視聴者を慰めるより先に、
「あなたは、今どこに座って見ている?」と問いかけてくる。
被害者の席?
被告人の席?
それとも――裁判官の席?
たいていの法廷ドラマは、視聴者をどこかに座らせてくれる。
「この人を応援していいよ」「この怒りは正しいよ」って、
感情の座布団を用意してくれる。
でもこのドラマは違う。
座布団を引っぺがしたまま、硬い椅子に座らせる。
そして逃げ道を塞いでから、こう言う。
「判断して」と。
だから苦しい。だから目を逸らしたくなる。
でも同時に、だからこそ私は見てしまった。
“裁く側に座らされる感覚”から、最後まで降ろしてくれなかったから。

この記事を読むとわかること
- なぜ『テミスの不確かな法廷』は「苦しい」「優しくない」と感じさせるのか(感情の正体)
- 松山ケンイチ(安堂清春)の演技が「派手じゃないのに強烈」な理由(技術の核)
- 「松山ケンイチ以外は微妙」に見えてしまう“構造的な錯覚”の正体(作品の設計)
- 再審編が残酷だったのは、誰のせいでもなく“正しさ”のせいだった話(テーマの核心)
この記事は、作品を持ち上げるためでも、叩くためでもない。
ただひとつ。
あなたの中に残った「言葉にできない苦しさ」を、置き去りにしないために書きます。
このドラマが一貫して描いていたもの
このドラマを見て一番つらいのは、誰が正しいかではなく、「自分ならどう裁くか」を考えさせられることだ。
このドラマを通して、一貫して描かれていたのは「正義」ではない。
もっと扱いにくく、もっと逃げ場のないもの――判断だ。
正義って、本来は気持ちがいい。
誰かを守れた、救えた、間違いを正せた――そういう快感がある。
でも「判断」は違う。
判断って、誰かを救うと同時に、別の誰かを切り捨てる。
しかも法廷の判断は、
“悪いやつを罰する”みたいな単純な話じゃない。
限られた証拠と証言で、他人の人生に判子を押す作業だ。
第1話の時点で、その姿勢ははっきりしている。
被害者側の証言が感情的に語られ、視聴者の気持ちは自然とそちらへ傾く。
ところが直後、被告人側の証言が出ることで、空気が反転する。
どちらの話にも、嘘はない。
でも、どちらか一方だけを信じることもできない。
ここで多くのドラマなら、
「真実を暴く証拠」や「決定打となる一言」が用意される。
でも『テミスの不確かな法廷』は、それをしない。
第2話でも同じ構造が繰り返される。
証拠としては弱いが、状況証拠は積み重なっている。
かといって「無罪だ」と胸を張れるほどの違和感もない。
ここで視聴者は気づかされる。
このドラマは、答えを見せるつもりがないのだと。
代わりに差し出されるのは、
「この条件で、あなたはどう判断する?」という問い。
だから苦しい。
正義の旗に隠れることができないから。
この逃げ場のなさこそが、このドラマの一貫した芯だ。
だからこの物語は、観終わったあとも「正解」をくれない。
松山ケンイチ(安堂清春役)が突出して見える理由
松山ケンイチの演技が異様に記憶に残るのは、彼が「何もしていないように見える瞬間」に、すべてを背負わせているからだ。
安堂清春という人物は、法廷ドラマの主人公としては異質だ。
彼は、感情を語らない。正義を叫ばない。場を盛り上げない。
松山ケンイチの凄さって、泣いたり叫んだりしないのに、場を持っていくところにある。
派手な芝居をしないからこそ、観ている側の神経が逆に研ぎ澄まされる。
第1話の評議シーン。
他の裁判官が次々と意見を述べる中、安堂だけがすぐに言葉を出さない。
あの沈黙は、「考えている」沈黙じゃない。
言ったあとに起きることまで、想像してしまっている沈黙だ。
もっと残酷なのは、
そのためらいが優しさと紙一重だってこと。
優しい人ほど、断言ができない。
断言した瞬間に、傷つく顔を想像してしまうから。
でも裁判官は、断言しなきゃいけない。
つまり安堂は、役職そのものが矛盾している。
その矛盾を、松山ケンイチはセリフじゃなく、
呼吸と目線と沈黙で積み上げていく。
第3話でも、それははっきり表れる。
感情的になった証人が言葉を止められなかった場面。
通常なら裁判官が制止するところで、安堂は止めない。
それは規則を知らないからではない。
ここで止めたら、この人は一生この言葉を言えなくなる
その未来を、想像してしまったからだ。
松山ケンイチの演技が突出して見えるのは、
感情表現が巧みだからではない。
感情を抑えたまま、
判断の重さだけを、観る側に押し返してくるからだ。
だから視聴者は、
安堂の代わりに苦しくなる。
彼の沈黙が苦しかったなら、その苦しさは、もう観ている側のものだ。
では、松山ケンイチ以外は「良くなかった」のか?
「松山ケンイチ以外は微妙だった」と感じたなら、それは演技の問題ではなく、このドラマの“設計”に引っかかっている。
ここ、すごく誤解が生まれやすい。
結論から言うと、松山ケンイチ以外にも良さはある。
ただし、その良さは“華”じゃない。
安堂を孤立させるための、必要な不格好さとして置かれている。
「松山ケンイチ以外は微妙だった」
この感想が出てくる理由は、理解できる。
検察は語気が強すぎる。
弁護士は焦りすぎる。
証人は感情的になりすぎる。
でも第2話や第4話を思い出してほしい。
彼らは一貫して「正しく振る舞えていない」。
それは演技の未熟さではなく、
意図的に配置された“人間の雑さ”だ。
現実の法廷で、
人生がかかっている場面で、
全員が冷静で理路整然としていることは、まずない。
第4話の再審に関わる人々もそうだ。
それぞれが自分の立場を守ろうとし、
結果的に言葉が尖り、感情が漏れる。
その中で、安堂だけが静かすぎるほど静かだ。
これは偶然じゃない。
周囲を“感情的”に描くことで、
主人公を徹底的に孤立させる構造になっている。
だから「他が弱い」のではなく、
役割が違う。
この違いに気づくと、
作品全体の見え方が変わる。
もし誰かに共感できなかったなら、それはこのドラマが失敗したのではなく、狙い通りだった可能性が高い。
再審の証人回が残酷だった理由
再審編がここまで苦しかったのは、誰かが悪かったからではなく、「正しい判断」が人を救わない瞬間を描いたからだ。
再審編の残酷さって、「ひどい事件が起きた」からじゃない。
もっと根っこにあるのは、正しさの性質だと思う。
再審編が特に苦しいのは、
悲惨な事件内容そのものより、
希望が言葉として否定されていく過程にある。
証人は「信じてほしい」と訴える。
視聴者も、どこかで救いを期待する。
でも安堂は、
「大丈夫」とも言わない。
「救われる」とも言わない。
第4話の法廷で、
彼が確認するのは、感情ではなく事実だけだ。
なぜか。
安堂は知っている。
希望の言葉は、判決次第で嘘になることを。
だから安易に与えない。
その直後、廊下で一人になった安堂が、
一瞬だけ呼吸を浅くする。
泣かない。
崩れない。
でも身体だけが反応する。
ここが本当に痛い。
彼は「正しいこと」をした。
でも正しいことをした人間が、必ず救われるわけじゃない。
正しさは、誰かを救うためにあるのに、
正しい人ほど傷つく。
この矛盾を、このドラマはごまかさない。
だから残酷。
でも、私はそこに誠実さも感じてしまう。
ここで描かれているのは、
「冷たい裁判官」ではない。
正しい判断をしたせいで、
感情の逃げ場を失った人間だ。
この描写があるから、
再審編は救いがないのに、忘れられない。
救われなかったのは証人だけじゃない――判断した側も、同じだった。
まとめ|「苦しかった」という感想は、この作品への正しい反応
このドラマを見て「しんどかった」と感じたなら、その感想こそが、作品があなたに届いた証拠だ。
『テミスの不確かな法廷』は、気持ちよく勝てる物語じゃない。
正義がスカッと決まって、拍手で終わる作品でもない。
それでも判断しなければならない人間が、
どれほど孤独で、どれほど矛盾を抱えるかを描いている。
だから観ていて苦しい。
でもその苦しさは、あなたが弱いからじゃない。
あなたがちゃんと、
裁く側の席に座ってしまったからだ。
そして、その席に座ったまま最後まで見られたなら――
この作品は、もうあなたの中に何かを残している。
私はそれを、怖いと思う。
同時に、ドラマができる一番誠実な仕事だとも思う。
そしてその居心地の悪さこそが、このドラマが最後まで手放さなかった誠実さだ。
もしあなたが、あの法廷で“判断する側”に座っていたとしたら――どの瞬間が、一番つらかったですか?



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